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塩船観音寺縁起

当寺は大悲山観音寺と称し、現在では地名の塩船を付けて『塩船観音寺』と申しております。

今を去る千三百年の昔、仏教が日本に伝わって間もない大化年間に若狭の国の尼僧「八百比丘尼」が関東遍歴の折に、この地こそ諸仏が鎮護する霊地であると感得し観音菩薩像を祭祀したことに始まります

奈良時代天平年間に「行基菩薩」巡錫の際、この地を仏が衆生を救おうとする大きな願いの舟である『弘誓の舟』になぞらえて塩船と名付けました
さらに平安時代貞観年間には夢告により比叡山の「安然僧正」来たりて、阿弥陀堂、薬師堂を建立、七社権現を奉遷、十二の僧坊を建立して興隆を極めたと伝えられる関東の古刹でございます
その後、鎌倉時代には現在の埼玉県入間市に拠を置いた鎌倉武士、武蔵七党の一つ村山党の「金子十郎家忠」の帰依を受け、本尊千手観音立像が仏師「快勢」により造立、続いて二十八部衆立像が仏師「定快」により造立されました

室町時代末期には、平将門末裔と称し、青梅地方に勢力を伸ばした豪族三田氏の「三田氏宗・政定」らの深い帰依を受け、本堂、阿弥陀堂、山門の建替が行われました
その三田氏と親交の深かった著名な連歌師「宗長」も観音寺を訪れ連歌を楽しんだことが、紀行文『東路乃津登』に記されています。二十八部衆の一つ、功徳天像の修理が行われた際、像の体内に納められた金子十郎の子息「金王丸」の遺品を見た三田氏宗は、哀憐の情にかられ「そのかみの まことは今もしられぬる くちぬかうちに かはる御仏」という和歌を詠じ、同像体内に納めています

鎌倉中期になると「杣保」(青梅市を中心に北はおおよそ入間川・高麗川流域を含めた、豊かな山林資源を背景に経済的に発達した地域)の中心である三田氏居城・勝沼城に近い丘陵に、本堂・阿弥陀堂・山門を供えた一大寺院として栄えていたと伝わります

以来、幾多の盛衰を経て歳月を重ね、武蔵の国の霊場として脈々とその法灯絶えることなく現代に至ります。真言密教そして修験道の流れを汲む塩船観音寺では、国家安泰、そして信徒方をはじめ皆様方の平安を願い、日々のご祈願、お勤めに精進しております
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山主あいさつ

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塩船観音寺山主
橋本公延
古の昔、若狭の国で人魚の肉を食し永遠の命を得たと言われる八百比丘尼が、当山の開祖であると寺史に伝えられております
その後今日まで千数百年という年月の流れの中で、観音寺は、様々な歴史を刻んでまいりました
中でも本堂は室町時代の建立であり、当山では現役の建築物としてこれを使用しております。今日を生きる私たちが、数百年前の時代を生きた人々と同じ空間を共有し、様々な祈りを受けとめてきた同じ御仏に現代の祈りを捧げることは、人が常に歴史の一部であることを改めて感じさせてくれます

昭和も40年代に入り、当山は篤信の信徒様方のご尽力により花の寺として整備が進められ、今日の姿があります
歴史を伝える幾つもの文化財、そして心を癒す美しい花々に彩られ、現代に生きる皆様方のお幸せを願い日々のお勤めをさせて頂いております

当山のある東京青梅市は都心から約40Km、豊かな自然の残る東京の奥座敷です。御仏の慈悲と季節を彩る花や大自然が、心を癒し明日への元気を授けてくれることと思います。是非一度観音寺へお出掛け下さい

合 掌

真言密教と修験道

塩船観音寺は真言宗醍醐派の別格本山です。総本山は京都山科にある醍醐寺、理源大師聖宝によって開かれたお寺です。聖宝師は、弘法大師空海の実弟で奈良東大寺の別当でもあった真雅僧正より教えを受けた方です
空海は806年遣唐使団の一員として中国に渡り、長安青龍寺の恵果和尚より密教の伝授を受け、密教の正統継承者となって帰国しました。その後空海がわが国において広めた仏教を真言宗または真言密教といいます

真言密教のご本尊は大日如来です。全ての仏様は大日如来に通じ、それは宇宙そのものの姿であると考えます。密教では、仏に近づき、宇宙との一体化を目指すために「三密」と呼ばれる行を行います。即ち手には印を結び(身密)、口に真言を唱え(口密)、心の仏との一体化を念ずる(意密)のです

  醍醐寺を開いた聖宝師はまた、修験道大峰山中興の祖とも呼ばれています
修験道とは、役行者を祖とし、深山において修行する山岳宗教です
聖宝師は自らも金峯山で修行し、大峰山信仰の復興を果たした修験者でもありました